あいさつ用
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講演会記録…●


●広島県・呉市・大和ミュージアム写真集  ●呉市・旅行記

呉・大和ミュージアム(2月)


西浦温泉「葵」(1月)


三谷温泉「サンヒルズ三河湾」(2月)

金谷→韮山(講演旅行)……●(2月)

浜名湖かんざんじ荘……●(2月)

【2012年・年賀状】2011−12−24記

 今年の年賀状は、東洋医学(黄帝内経・素問)の一節で飾った。
「毎年、ちがった年賀状を出す」が、私のモットーになっている。
(中には、10年、20年と、まったく文面の人もいるが……。)

『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。
行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。
身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』(上古天真論篇)と。

 が、これだけでは、何ともおもしろくない。
そこでムーディーズなどの評価法を借り、現状を分析してみた。

2011年の成績

 ボケ度…Aa (ムーディーズ)
 離婚騒動…6回くらい(前年度比−20%)
 一泊旅行…50泊くらい(前年度比+10%)
 仕事…弱含み (日銀短観)
 体力…Bbb (ムーディーズ)(運動量前年度比ー15%)
 精力…Ca 沈没寸前 (ムーディーズ)
 ピンコロ可能性…5年以内に50%(前年度比+10%)
 劇場映画鑑賞…48回(前年度比+10%)』と。

 こうしてできあがったのが、つぎの年賀状。



 多くの方に、年賀のあいさつを失礼している。
こんな年賀状だが、そういう人たちの目にとまれば、うれしい。



【生きる目的と意味、そしてその生き様】
(はやし浩司 2012ー01−01)


●前向きに生きる

 前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。

(1)失ったものを、嘆かない。
(2)去った人を、追わない。
(3)ないものを、ねだらない。
(4)亡くなった人を、思わない。
(5)過去を、くやまない。
(6)失敗を、気にしない。
(7)自分の不幸を、数えない。

 が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。

(1)あるがままの自分を認める。
(2)負けを認める。
(3)今を原点として、生きる。

 人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。

今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。

その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。

 他人に対しては、つぎの5つを守る。

(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。

 さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。

(1)私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2)年齢という数字を、気にしない。
(3)最後の最後まで、居直って生きる。
(4)孤独死、無縁死を、恐れない。

 あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。

 朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。 
それを「真の幸福」という。

 前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!

 『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●人を恨まない

 H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。

 『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。

『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。

 が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。

●真の自由

 過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。

 すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。

●運命

 今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。

 大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから退散していく。

 方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。

 書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。

 もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。

 が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。

●2012年01月01日

 さあ、ともあれ、2012年は始まった!

 友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。

 馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。

 私たちはそういう人を、憐れんでやろう!

 人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。

 あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。

(はやし浩司 2012−01−01記)


講演会記録…●




明けまして、おめでとうございます!



【2011年、あいさつ】

●完全燃焼を目指して……

 2010年(昨年)は、現状維持に心がけました。
健康、仕事、人間関係など。
が、2011年は、もう一度、がんばってみようと
考えています。
つまりこれからの数年をかけて、自分を燃やし尽く
そう、と。

何も年齢に遠慮する必要はありません。
老後などというものは、先の先の話。
考えようによっては、20代、30代のころよりは、
ずっと仕事がしやすいはず。

●7500メートルの山

 人生を山登りにたとえる人は多いですね。
山登りを、人生にたとえる人も多いですが……。
「70歳まで働く」ということは、「7000メート
ルの山に登るようなもの」。
……というような話を義兄に話しましたら、義兄は
すかさず、こう言いました。
「7500メートルにしなさい!」と。

高い山に登るためには、それなりの準備が必要です。
今年1年をかけて、私はその準備に取りかかります。
7500メートルの山に登るのです。
そこに何があるか、私にはわかりません。
しかし登ってみます。
それがこれからの私の目標ということになります。



【2011年の抱負】

2010年を振り返ってみる。
この1年間を、一歩退いて見直してみる。
するとそこに、私という1人の人間が、
浮かびあがってくる。
そういう自分を改めて、ながめてみる。

何となく生き延びてきた。
しぶとく生き延びてきた。
そんな感じがする。
(少し暗いかな?)

現在(2010年11月末)、私は63歳と1か月。
体のあちこちが、ガタガタしてきた。
同じ姿勢でいると、体がこわばる。
後頭部の神経痛がときどき起こる。
足裏の腱しょう炎が治ったと思ったら、
今度は右肩の腱しょう炎。
これが数か月単位で長引いた。

人というのは、急に死ぬのではない。
もちろんそういう病気もある。
心筋梗塞とか脳梗塞。
そういう病気では、急に死ぬ。
そうでなければ人は、少しずつ「死」に向かって
歩いていく。
つまり健康とは、今までは維持するものだった。
それが今は、健康とは、少しずつ失っていくもの。
この1年間で、それが自分でもよくわかった。

2011年は、そんなわけで、健康との闘いが
テーマになりそう。
失われていく健康を、どう食い止めるか。
・・・というより、ふと油断したようなとき、
病気は、後ろから襲ってくる。
友人のOKさんがそう話してくれた。
OKさんは、現在、血液のがんと闘っている。
私より数歳、若い。

つぎに「流れ」。
連続的な緊張感を、「流れ」という。
東洋医学でも、『流水は腐らず』と教える。
精神も肉体も、流れが止まったとたん、腐り始める。
その「流れ」を、どう維持するか。
連続的な緊張感を、どう維持するか。
具体的には、仕事+活動。
収入を考えた仕事と、まったく収入を考えない活動。
この2つを両立させる。

2010年は、それをうまく両立させることができた。
2011年も、それをつづける。
平たく言えば、「現状維持」。
現状維持ができるだけも、御の字。
そう考えて、それ以上のことは、望まない。
冒険しない。
日々に、平穏を旨とする。

・・・ということで、年齢というのは
私の一側面に過ぎない。
残りの大部分は、2010年のまま。
そう考えて、今までどおり、2011年も
現状維持を第一に考えて、何とか
生き延びてやる。
しぶとく生き延びてやる。
それが2011年の抱負ということになる。




YOUTUBE Photos (駒ヶ岳登山)…… 




オーストラリア旅行記(2011ー03−30〜)……●



城の崎旅行記……●


羽咋市・コスモアイル旅行記……●



2010年 平成22年



【2010年のこと】

☆2009年から、3つの新しいことを始めました。
まず、ルーム・ウォーカーを購入したこと。
朝起きるとすぐ、それで10分間、ウォーキングをします。
平均して毎日、30〜40分は、その上で歩いています。
いろいろなものを買いましたが、ルーム・ウォーカーは、
その中でも、ベスト・ワンということになります。

ただその分だけ、サイクリングの回数が減ったかな?
それまでは、40分のサイクリングを1単位として、
週に5〜7単位を目標にしていました。
が、今は、週に3〜4単位程度。
「安全」を考えるなら、やはりこれからは家の中で
運動したほうがいいのかもしれません。

2つ目は、毎週、舘山寺の温泉に通い始めたこと。
どこでも「日帰り入浴」というのを、させてくれます。
それを使って、あちこちの温泉巡りというわけです。

また3つ目は、バス旅行をやめ、講演先でホテルや
旅館に泊まるようにしたことです。
こうして月に2〜3回は、小旅行を楽しんでいます。

☆今年(2010年)もつづけたいことはいくつか、あります。
数年前から、週に1度は劇場で映画を観ることにしています。
これはボケ防止のためです。
シルバー料金というのがあって、
いつも1000円(1人)で観られます。
おまけに6回観ると、つぎの1回分はただ。
さらにポイントが6000点たまると、1か月のフリーパス
がもらえます。
そんなわけで、12月〜1月は、映画を見放題。
ハハハ。



09年に、68キロ前後から、60キロ前後まで減量しました。
体重の話です。
少し油断すると、すぐリバウンドしそうになります。
そのたびに、ダイエット+運動。
その繰り返し。
2010年中は、この体重をキープします。
つまりがんばります。

☆2009年には、いくつかのできごとがありました。
実家を処分し、郷里から解放されたこと。
ともに、バンザ〜イ!

☆ともあれ、何よりも大切なのは、家族と健康。
いつも夫婦喧嘩ばかりしていますが、それも今では
スパイス(調味料)のようなもの。
割り切って(?)、喧嘩しています。

おかげさまで、2009年は、みな、健康に恵まれました。
体重を減らしたおかげで、脚痛も、なくなりました。
今のところ成人病とは無縁。
がん検診も、ことごとく(?)、シロでした。
そんなわけで、たぶん、2010年も、無事生きていかれる
のではないかと思います。

☆あとは仕事ですね。
私のばあい、休みが1週間もつづいただけで、脳みそが休眠
状態になってしまいます。
2週間もつづいたら、サビてしまう?
もちろん体も……。
そんなわけで、退職、引退などというのは、
まったく考えていません。
死ぬまで働く……。
それしかないというのが、今の結論です。

多くの人に支えられての1年間でした。
おかげで、2010年は、2009年より忙しくなりそうです。
「がんばります」というか、、「がんばれ!」「がんばれ!」と、
自分にムチを打ちながら、今年も、前に向かって進みます。

                   (2010年・元旦)



●2009年、いろいろありました。
しかし振り返ってみると、あっという間の1年でした。
……とまあ、グチぽいことは、やめ!

●二男がCERN(スイスの量子加速器)研究に、
技師として関与、などなど。
孫の誠司、芽衣も、スクスクと育っています(上の写真)
息子や孫たちに、励まされ、支えられての、1年でした。

●おかげさまで、2009年も、健康に恵まれ、仕事も順調でした。
あとは、息子たちに心配をかけないよう、現状維持+αで、2010年も乗り切ります。

もちろん夢もあります。
アメリカの息子夫婦を訪問。
オーストラリアへワイフを連れて行く。
老後用の家を建築、などなど。
実現に向けて、がんばります。

晃子&浩司


沖縄旅行記(2010−10−29〜)…●


ワイフの誕生日を、みなが祝ってくれました。(2010年6月10日) みんな、ありがとう!
家族3人で、ささやかなパーティ……●


田丸謙二先生…●




2010−2−20 金沢へ
同窓会の様子……






伊豆下田・白浜・ガーデンヴィラ白浜にて(すばらしいホテルでした。)(2010ー01−30)
下田での講演会のあと、1泊させてもらいました。すばらしかったです。
会の主催者の方たちと
2010年・1月・・・掛川・プリンスホテルでの講演




銀波荘から見た海(2010−1−5)


2009年12月末撮影
WINDOW7(i7,64ビットマシン)の性能を確かめているところ。


秋田こまち米の本拠地で、講演をさせていただきました。
SKさん、いろいろとありがとうございました。(09・12月)
この日まで、まったく雪がなく、その翌日、大雪だったとか。
「よかった!」+「残念!」・・・複雑な気持ちでした。
「横手そば」を食べるたびに、思い出します。
また米は、以後、ずっと、「秋田こまち」にしています。
写真は、横手市の中にあった神社前にて。


2009年6月・静岡県・青少年育成総会・基調講演







   平成21年

          
満61歳の誕生日を迎えたとき、私は、「1年、もうけた」と思いました。

これから先の人生は、1年ごとに、「もうけもの」と思いながら、生きていくことになると思います。

歩くことができる。
話すことができる。
目でものを見ることができる。
耳で音を聞くことができる。

すべてが、もうけもの。
生きていることに感謝しながら、プラス、家族のみなが健康であることに感謝しながら、2009年も、大切に、かつ慎重に生きていきます。
        
2008年は、まさに激動の時代(おおげさかな?)でした。

兄の他界、母の他界とつづきました。
「命」の大切さ、「生きること」の意味を、改めて、考えなおさせられました。

2009年……さらに運動量をふやし、健康を大切にしたいと思います。

家族みな、すこぶる健康であることに、感謝しています。

I love you, Akiko!
晃子、愛しているよ!
2009年も、よろしくね!   
          蝶の大移動を見ている誠司




2009年2月  田丸謙二先生……●


5月18日、Bobが満60歳の誕生日を迎えました!
Happy Birthday, Bob!
Next to me on *my* right is my niece Sophie. Looking over her right
shoulder is her mother and my sister Yvonne, who will be 50 this year.
On Yvonne's right is my brother Vernon.
On *my *left is my daughter Elizabeth .
On the edge of the picture to *my* left is my son Andrew with his wife
Kathy and son Taine.
On the left of my mother is Dad's sister Lorna who is 95.
Mother is 83

ボブとの思い出

●車で大陸を横断する



 「君はどの島から来たのか」と聞かれたことがある。そこで私はムッとして、「島ではない。メ
インランド(本州)だ」と答えると、皆は、どっと笑った。私が冗談を言ったと思ったらしい。



 英語で「メインランド」というときは、中国大陸やヨーロッパ大陸のような大陸をいう。しかし日本はやはり島国だった。



 その夜、私とボブとマイクは、車に乗った。夜の一〇を過ぎていた。寒い夜だった。冬の気候としては、ありふれた気候だった。が、それがまちがいだった。私たちは徹夜で、走ることにしていた。時速一二〇キロ前後で走れば、昼までにはアデレードへ着く……、私たちはそんな計算をしていた。



 私は数枚の毛布と、かばんに日用品を詰めて車のうしろに載せた。そして、出発。一時間も
走ると、スミを垂れ流したかのような暗闇、また暗闇。牧場を突ききって走っているはずだが、それは見えない。が、それからが地獄だった。



 気温が急激にさがり始めたのだ。最初、私が「寒い」と言った。運転しているボブは、「ヒータ
ーがきかない」と言い出した。確かに熱風が出ているはずなのだが、その熱気は、すぐどこか
へ消えてしまう。マイクもうしろの席で、毛布にくるまって震えていた。私も座席に足をあげ、全身を毛布でくるんで小さくなっていた。が、それでも体の震えは止まらなかった。



 運転しているボブも寒いはずだが、彼だけは「寒い」とは言わなかった。運転しながら、次々
とパンをかじっていた。私はそのときほど人種の違いを意識したことはない。私はアジア人。寒さに弱い。マイクはユダヤ人。細い体つきで、寒さには強くないらしい。が、ボブだけは、脂肪太りで丸々としていた。しかも全身が、剛毛でおおわれている。いつか「ぼくの体には蚊も近寄れない」と笑っていたのを覚えている。



 つまりボブの祖先は、北欧民族だ。が、そのボブも、そのうち泣き言を言い始めた。ぞっとするような泣き言だ。いわく、「車が止まったら、ぼくたちは死ぬかもしれない」と。さらに時間がたつとこう言った。「車がもたないかもしれない」と。身をズタズタに切り裂くような寒さ。身の置き場がない。



 オーストラリアでは、「真鍮(しんちゅう)のサル(Brass Moinkey)」と表現する。どうしてそういう言い方をするのかは知らないが、真鍮のサルというのは、そういう寒さのことを言う。



●朝日が痛い!



 日本の気候を規準にして、大陸の気候を考えるのは、正しくない。いくら暑くても、また寒くても、日本の気候は日本の気候。しかしオーストラリアの気候は、その日本人の常識をはるかに超えていた。



 私は車の中で、何度か死を覚悟した。車は平原を走っていた。砂漠の端だったかもしれな
い。ともかくも寒かった。が、南オーストラリア州へ入るころに、夜が白み始めた。まっ白な朝
だ。そしてその下に広がる、まっ赤な大地。ボブは平静を装っていたが、内心は穏やかではなかったと思う。気温はまださがり続けていた。が、そのときだ。



 まっ白な太陽が、うしろのほうから地平線に顔を出した。スーッと光の筋が流れた。そしてそ
の筋が、顔に当たった。「痛い!」と、私は感じた。光が痛いのだ。その光は車の動きに合わ
せて右、左とゆれたが、そのたびに顔や手に当たった。やはり痛い。私はその痛さを体の中
に染み込ませるようにして、顔をなでた。そのときはじめてボブが、口を開いて、こう言った。
「グッド・モーニング」と。



 あのときのボブ、つまりロバート・ベアは、南オーストラリア州で農業指導員をしている。マイ
ク、つまりマイケル・アイゼンは、今、南オーストラリア州で医者をしている。


●もっと読んでくださる方は……世にも不思議な留学記へ!


板取川(09年5月)


私が着ている軍服は、映画、「大脱走」で、スティーブ・マックィーンが着ていた軍服


首に巻いているのは、マスクです。 月に1〜2回は、こうして「歩こう会」に参加しました。


"Are you talking to me?"


2008年度も、40を超える会場で講演させていただきました。ありがとうございました。(写真はH小学校)



左から、長男、ワイフ、私、デニーズ、芽衣、二男、前列前が誠司        左が三男、右が私
息子たちはみな、190p前後の大男になりました。(私が小さいわけではありません!)
長男…地元の製造会社、二男…アメリカの州立大学でスパコン技師、嫁…司法修習生、三男…B777のパイロット

2008・12月、オーストラリアの友人が送ってくれた、手製のクリスマス・カードです。



To: Dennis, thank you very much for this card!
Let's see each other again in Sunnington, Eastern View some day!
カードの左のアーチが、グレート・オーシャン・RDの記念アーチです。
私が描いた絵です。友人の母親が、寝室にずっと飾っていてくれました。
それについて書いた原稿が、つぎのものです。


Dennis と 私 (2008・2月)

Dennis +高橋さん +私


ローンの新年【22】 (世にも不思議な留学記より)(デニスとの思い出)


1971年当時の私と、グレート・オーシャン・ロード
デニス君の別荘は、手前、左側のところにありました。

●ローンという避暑地



 グレート・オーシャン街道という道がある。第一次大戦のあと、退役軍人たちが戦勝を記念して作った道だ。この街道がジーロンから、ローンという避暑地を通って、南オーストラリア州まで続く。



 友人のデニスの別荘は、そのローンの手前、車で半時間ほどのところにある。私は日本へ
帰国するまでの二ヶ月間、この別荘で残りの日々を過ごした。と言っても、ずっとその別荘に
いたわけではない。ここを拠点に、メルボルンの間を往復したり、アデレードまで足をのばしたりした。



 そうでないときは、ローンの町で、終日泳いだり、映画を見たりして時間をつぶした。そのロ
ーン。毎年大晦日には、数千人の若者が集まるという。そして新年の合図とともに、その若者
たちが乱痴気(らんちき)騒ぎをするという。



 私たちも大晦日には、ローンへ行くことにした。友だちの中には「行かないほうがよい」とアドバイスしてくれた者もいた。が、そう言われれば言われるほど、好奇心がわいた。



 その日の午後。つまり一二月三一日は、よく晴れわたった暑い日だった。午後少しまで泳いで、一度デニスの別荘まで戻った。そこで早い夕食をすますと、再びローンへ向かった。



 あたりの様子は一変していた。あれほど閑散としていたローンの町が、若い男女であふれかえっていたのだ。砂浜で野外映画の準備をしているグループ。かたまって騒いでいるグループ。ギターを演奏しているグループなど。



 大半はその間を行き来しながら、ビールを飲んだり、何かを食べていた。そう、砂浜の中央
には巨大なトランポリが置いてあり、それで遊んでいる若者もいた。ふと見ると、デニスがホテルの壁をよじ登っているではないか。二階の窓から数人の女の子に声をかけられ、その気になってしまったらしい。



 私は何度か呼びとめたが、私を無視して、そのまま部屋の中に消えてしまった。



 私は一人だけになってしまった。知り合いもいなかった。しかたないので、そのままデニスが
戻ってくるのを待った。こういうとき白人というのは、実に冷たい。徹底して、「私は私、お前は
お前」という考え方をする。



 夜がふけると、あちこちで花火がなった。それに合わせて、歓声また歓声。さらに夜がふけ
ると、ローンの町は、もう足の踏み場もないほどになった。デニスが戻ってきたのは、そのころだった。そしてあのカウントダウンが始まった。



●そして皆……!



 「テン、ナイン、エイト……」。そして「ワン、ゼロ」となったところで、一斉に声が宙を舞った。
「ハッピーニューイヤー!」と。



 とたんまわりにいた若者たちが、一斉に衣服を脱ぎ始めたのだ。衣服といっても、簡単な水
着の者が多い。そういう者たちが、そのまま身につけているものを脱いだ。



 裸だ。皆、素っ裸だ。男も女も、ない。皆、だ。異様な雰囲気になった。興奮のあまり、ビール瓶や空き缶を商店めがけて投げつけるものもいる。ガチャンガチャンと、何かが割れる音がひっきりなしに聞こえてくる。花火も最高潮に達した。



 私は再度デニスと別れて、というより恐怖心に襲われて、ローンのはずれにある小さな橋の
ところまで逃げて帰った。私はガタガタと震えていた。いくらあたりを見回しても、アジア人らし
き人間は、私一人しかいない。いつ群集の袋叩きにあってもおかしくない雰囲気だった。



 途中騎馬警官が何人か来たが、その警官までもが、皆と一緒になって新年を祝っているで
はないか。あたりかまわず「ハッピーニューイヤー!」を連呼していた。取り締まろうという気持さえないようだ。こうして私は一九七一年の一月一日を迎えた。

もっとお読みくださる方は……●



2008年、実兄と母を、あいついで亡くしました。年末に、仏壇を浜松へ移しました。
精入れの法事が済んだときのものです。(12月10日)









昨年、私も、満60歳になりました。
が、何も変わっていない!
変わっていないことに、大きな喜び
を感じました。

みなさんにとっても、よい年であり
ますことを、心より念願しています。
NEWS 嫁のデニーズ、司法試験に合格(08年4月)
      英市、J社操縦訓練機決まる(B777・08年8月)


2008年の抱負

読者のみなさんへ
今を生きる
●「60歳」という年齢制限を超えた今、私には、この先、もう年齢制限はあ
りません。この先、年齢を気にすることなく、思う存分、私は私の人生を生き
てみたいです。ジジ臭い、うしろ向きの生き方など、まっぴら、ごめんです。

●「今を生きる」ということは、今、この瞬間にできることをする、やりたいこと
をする、決して、ものごとを先延ばしにしない、いつも未来に向かって、進む
ということですね。過去を振り返っても、そこにあるのは、足跡と、影、それに
乾いた風だけ。なにごとも、前向きにとらえて生きていきたいです。

●大きな夢というのはありませんが、小さな夢は大切に。それを今年は、つ
ぎつぎと実現させていくつもりです。
怒と闘う
●私の情緒は、いつも不安定です。ささいなことで、感情がよく動揺します。
今年は、その中でも、「怒」に焦点をあて、その「怒」と闘ってみたいです。

そこにある
価値を大切

●健康、家族、平和、安穏……今、そこにあるものに価値を見いだし、それ
を大切に守っていきたいです。

●「何かをする」というのではなく、何があっても、それを乗り越えていくの
が、今年の目標です。そのための準備と覚悟を、つねに心がけながら、生き
ていきたいです。
マガジン
●今年(2月はじめ)、私が出しているマガジンが、1000号を迎えます。1
000号……、それは同時に、「こんなことをして、何になるだろう?」という思
いとの戦いでもありました。ときどき、「1000号になったら、何かあるかもし
れない」と思うこともありました。が、結局は、何も、ないでしょう。何も、起こ
らないでしょう。

●だから私も、その先は何も考えず、今までどおり、マガジンを発行していく
つもりでいます。もう、何も期待していません。「結果は、あとからついてく
る」と言いますが、その結果も、気にしないで、がんばって書きつづけていき
たいです。

●つまり生きていることに感謝しながら、これからは楽しみながら、原稿を書
いていきたいと願っています。

●一度、マガジンを廃刊にしようと考えたこともあります。そのとき、私を支
えてくれたのが、入野町のわかば医院のスタッフのみなさんでした。マガ
ジンがつづくかぎり、その恩を忘れません。ありがとうございました。

みなさんへ
●みなさんは、私の文を読んでくださるという形で、私に、生きがいをくださ
っています。感謝しています。マガジンの読者の数にしても、少しずつです
が、毎回ふえていくのを知るのは、ほんとうに、励みになりました。そのかわ
りといったらなんですが、私はみなさんに、情報をお届けします。(生きが
い)と(情報)の、ギブ&テイク、ですね。

●自分のことばかり書きましたが、2008年も、みなさんにとって、すばらし
い年となることを、念願しています。今年も、よろしくお願いします。

                           2008年  元旦

                              はやし浩司


2008年7月 伊吹山にて


2008年7月 岐阜県 付知峡にて


2008年6月 天城峠にて


2008年6月 彦根城にて


2008年4月・京都・嵐山で


2008−3−31 姫路城にて




07年・長男と、自転車で浜名湖を一周しました。(途中のレストランで……)


07年・恩師の田丸謙二先生と、浜北市にあるレストランで食事をしました。


今年(07)も、ワイフと、あちこちを旅行しました。

















撮影・E・Hayashi
みなさんも、お元気で!


今年(2007)の抱負……というのは、とくにありませんが、健康は現状維持、頭のボケに注意したいと思っています。

具体的には、(1)週10単位の運動(1単位は、40分のウォーキング、サイクリング)にこころがけたいと思っています。

あとは、食べ物にも、注意を払いたいです。今まで、あまり深く考えないで、好きなものを食べていましたが、これからは、そうはいかないと思います。

私のばあい、幸いなことに、仕事と年齢は関係ありませんので、年齢を考えることなく、つまり気にすることなく、マイペースで、今までどおり、前だけを見て進みたいです。

とくに今、一番力を入れているのが、電子マガジンです。「1000号までつづける」が、私の目標になっています。1000号になるのは、2008年の春ごろになりそうです。それまでは、何も考えずに、マガジンを発行しつづけたいと願っています。

今年(2007)にしてみたいことは、ワイフと2人で、アメリカに住む二男を訪れることです。2人目の孫もできました。

しかし飛行機がこわくてなりません。息子の操縦なら、だいじょうぶだろうと思っています。息子は、「ぼくが入社したら、3ヶ月待ってほしい」と言っています。3ヶ月まったら、家族は、世界共通の、航空券をただでもらえるようになるそうです。制限はないとのことですから、1年中、世界旅行……というのも可能になります。楽しみにしています。

今年も、郵便局配達の年賀状を、大幅に減らしました。そのため、私どものことを心配してくださっている方もいらっしゃるかもしれませんが、私たちはおかげさまで、元気でやっています。どうか、心配なさらないでください。

先ほど、「前向きに生きる」と書きましたが、前向きに生きるということは、今日、この瞬間にできることは、今すぐ、するという意味です。決して、先延ばしにしないということ。

もうひとつ重要なことは、いつも考えながら、生きるということです。自ら考えるからこそ、人間は人間でいられる。私は、そう思っています。

そのためにも、できるだけ多くの人に会い、いろいろな話を聞き、音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んだりしたいです。今の私にとっては、一瞬、一秒たりとも、ムダにできる時間はありません。

しかし……というか、もう2007年! 今年はどんな年になるのでしょうか? 国際情勢も不安定になってきましたし、地球温暖化も現実的になってきました。不安といえば不安ですが、その不安と戦うためのゆいいつの方法は、人間自らが、賢くなることですね。

敵の正体がわかれば、不安になるということもありません。わからないから、不安になるのです。また敵の正体がわかれば、対処法も、自ずと、わかってきます。

おかげで私は、毎日、幼児や子どもたちと接することができます。何がすばらしいかといって、幼児や子どもたちのもつ、あのエネルギーと純粋さに触れることができることくらい、すばらしいことはありません。

ときに、接しているだけで、自分の心が、サーッと、洗われていくように感ずることもあります。つまり私は、いつか死ぬまで、何らかの形で、幼児や子どもたちと接していきたいと願っています。

みなさんの、ご健康とご多幸、さらには、お子さんたちの健やかな成長を心より念願しています。みなさん、ご家族の方ともども、すばらしい新年をお迎えください。
来年(2008年)も、元気で、みなさんに、こうしてご挨拶できることを、楽しみにしています。今年1年も、フルパワーで、がんばります。

最後になりましたが、もしよろしかったら、電子マガジン(まぐプレ・有料版)を、どうか、ご購読ください。月額300円です。お申し込みは、「はやし浩司のホームページ」、トップページからしていただけます。

よろしくお願いします。


乗鞍岳山頂にて
2006年で、最高にすばらしい思い出のひとつになったのが、乗鞍岳に登ったことです。








庭で、餅つき!
この日、私はインフルエンザにかかり、38度〜の熱がありました。
さえない顔をしています。
私が着ているジャンパーは、全米トラック協会のユニフォームです。


2006年正月を迎えて……








2001年1月2日




1970年卒業時の「法経」アルバムより

●31年目の約束


ちょうど31年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。

「2001年1月2日、午後1時2分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。

それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだった。当時の私は22歳。ちょうどアー
サー・クラーク原作の「2001年宇宙の旅」という映画が話題になっていたころでもあ
る。私にとっては、31年後の自分というのは、宇宙の旅と同じくらい、「ありえない未
来」だった。

 しかし、その31年が過ぎた。1月1日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すよう
な冷たい雨が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。と
たん、無数の思い出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、
言葉にならない。細い路地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。

いつもなら海産物を売るおやじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売
りは五日から」という張り紙が、うらめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを
見ることも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯の虚勢をはって、学者然と
して写真におさまっている自分が、どこかいやだった。

しかし2001年が近づくにつれて、その日が私の心に重くのしかかるようになった。
アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出口」ということか。し
かし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その間に無数の思
い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそのまま出
口だった。そんな感じで31年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「…自分に対する責任のような
ものだ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「2001年まで私は生きているだ
ろうか」と思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、
時に美しく、そして時に物悲しい。

フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、また去る…」
と。

部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あなたの、彼
の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように…」と。

何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。ど
こからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握った
と思っても、そのまま指の間から漏れていく。

 翌1月2日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通り
にある茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやん
でいた。そこから石川門までは、歩いて数分もない。

歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」と聞くと、女房が時計を見ながら
「一時よ…」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばってみた。「ここに立っている」と
いう実感がほしかった。

学生時代、四年間通り抜けた石川門だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑い
ながらやってくるのに気がついた。同時にうしろから声をかける男がいた。それにもう一
人……! 

そのとたん、私の目から、とめどもなく涙があふれ出した。


2001年1月2日 石川門の前で




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