【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【今回から2回に分けて、田丸先生についての原稿を送ります】

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●田丸謙二先生
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今度、恩師の田丸謙二先生が、化学会の化学遺産委員会の
ほうで、インタビューを受けました。
田丸謙二先生の生涯の履歴書のようなものです。
先生から原稿を送ってもらいましたので、そのまま紹介
させてもらいます。
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林様:
例の「名士インタビュー」の最終原稿です。 どうせ文
部科学省の連中は読んでくれないと思いますので、「要約」をつけま
した。 私は大変に大事な教育改革だと思いますが、最近の様子を
知らせてください。 日本人は自分の意見を自立して考えて外国人
と討論でき、debate ができるようになれるにはどうしたらいいので
しょうか。特に外務省の役人の人たちなど、矢張り小学校の頃から
訓練しないといけないのではないでしょうか。
率直なご意見お待ちしています。
田丸謙二
この原稿に写真がつきます。どんなのがつくか分かりませんが。
(2009年5月16日)

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【田丸謙二先生へ】
おはようございます!
ひざの関節のぐあいは、いかがですか?
たった今、送っていただいた原稿を、再度、読ませていただきました。
(先日、プロトタイプの原稿を送っていただきましたので、今回が、2回目という
ことになります。)
Independent Thinkerについてですが、まず第一に、日本の社会のしくみそのものが、
独立してdebateできるようなしくみになっていないということです。
「もの言わぬ従順な民づくり」が、今でも、教育の基本です。
それではいけないと考えている教師も多いようですが、結局は押さえこまれてしまって
います。
あるいは限られたワクの中に、安住してしまっている(?)。
ワーワーと自己主張するような子どもは、集団教育の場では、やりにくいというわけ
です。
これについては、江戸時代の寺子屋教育、さらには明治に入ってからの国策教育が
原点になっていますから、改めるのは容易なことではないでしょうね。
「もの言わぬ従順な民」に教育させられながら、またそういう教育を繰り返しながら、
当の本人たちが、それに気づいていないのですから。
第二に、私自身が、そういう世界に生きてみて実感しているのですが、この日本では、
(力のある子ども)(力のある人)を、どんどんと登用していくというシステム、
そのものが、できていません。
先生がいつもおっしゃっているように、トコロテンのように(流れ)に乗った人は、
それなりのコースを歩くことができますが、そうでない人は、そうでない。
たとえば私の息子たちですが、二男は、現在、インディアナ大学(IU)で、スーパー
コンピュータの技師として働いています。
キャンパスを車で行くだけで、2時間もかかるという広大な大学です。
(多分、先生もご存知かと思いますが……。)
二男はそれを操って、世界中のスパコンをリンクさせるというような仕事をしています。
で、今は、EUが開発した量子加速器(映画『天国と地獄』にも一部、出てきましたが)、
そこから衛星を使って送られてくるデータの分析をしているそうです。
浜松のランクの低い高校を出て、アメリカへ渡り、ワチェタ大学→ヘンダーソン州立大学、
コンピュータ・ソフトウェア会社を経て、IUに移りました。
私はこういうことが自由にできるアメリカのものすごさに、驚いています。
一方、二男の嫁は、ヘンダーソン大学のアメリカ文学部を、主席で卒業したこともあり、
2年前、日本でいう司法試験に合格。
全額奨学金を得て、同じIUに通っています。
2児の母親が受験勉強をして、です。
これもまた日本では考えられないしくみです。
で、三男はどうかというと、横浜国大をセンター試験2位の成績で入学しながら、中退。
オーストラリアのフリンダース大学の語学校を卒業、(つまり卒業ということは、大学の
専門学部への入学資格を取得したという意味です。たいはんの留学生は、入学資格を
取得できないまま、帰国しています。)
そのあと航空大学に入学、現在は、J社で、B-777の最終操縦訓練を受けています。
で、この三男でおもしろいのは、学生時代に、世界的規模のアマチュアビデオコンテスト
(英語名:Fish-eye)で、グランプリ(第一位)を獲得したという点です。
表彰式はロシアのモスクワでありました。
しかし、です。
ここからが日本です。
三男は自分で制作したビデオ類を、昨年、すべてYOUTUBEから取り下げて
しまいました。
詳しくは書けませんが、そういった圧力を、どこかで感じたのでしょう。
つまりこの日本では、(力のある人)が伸びることもできず、「型」にはめられ、
押し殺されてしまうのです。
で、今は、ビデオ制作から、完全に遠ざかってしまっています。
こうした(しくみ)は、私も自分の人生を通して、いやというほど、思い知らされて
います。
なんせ、そこらの出版社の編集部員ですら、そういう(しくみ)に迎合しているのです
からおかしいですね。
(東京の出版社からときどき、客がきますが、みな、手ぶら。
駅からの送り迎えにあわせて、食事の接待などを、平気で私たちにさせたりします。
「ああ、この男は、私をそういうふうに見ているのだな」ということが、それでよく
わかります。)
こういった(しくみ)を変えていくのは、たいへんなことです。
それこそ教育のしくみ、そのものを、根底から変えていかねばなりません。
端的に言えば、現在のように、学校しか道がなく、学校を離れて道がないという(しくみ)
を変えていかねばなりません。

ご存知のように、大学では、EUのように単位の共通化をするという方法もありますが、
たとえば小中学校レベルでは、ドイツやフランス、イタリアのように、「クラブ制」を
もっと導入していきます。
日本でも、あちこちで始まりつつありますが、官製クラブでは、意味がありません。
学校教育そのものが、現在、教育機関として満足に機能できない状態にあります。
教師たちが忙しすぎるというのも、深刻な問題です。
どうしてその上、「クラブ」?、ということになります。
民間に委譲できる部分は、思いきって移譲すればよいのです。
そのEUでは、クラブ制を活用し、その費用は国が負担しています。
(額は、国によってちがいますが、同じくクラブの費用も国によってちがいます。)
もっとも現在のままクラブ制を日本で導入したら、進学に有利なクラブのみが繁盛する
という結果になってしまうと思いますが……。
つまりこの日本では、debateできる国民は求められていないということです。
自分の意見を、自分の名前で発表していく……。
何でもないことのようですが、それができません。
この私についても、「あの林は、共産党員だ」と書いているBLOGもあります。
政治を批判したら、共産党員というわけです。
(最近では、「北朝鮮のミサイル迎撃反対」という意見を書いたら、即刻、「売国奴
BLOG」なるもののリストに、私の名前が載ってしまいました。)
まるで日本全体が、歌舞伎か相撲、茶道、華道、さらには、能の世界みたいです。
が、もちろんこれではdebateなど、求むべくもありません。
Debateしたくても、相手が逃げてしまいます。
毛嫌いされてしまいます。
……とまあ、愚痴ぽくなってしまいました。
で、自分の人生を振り返ってみて、こうも思います。
「私はたしかに自由を求めて生きてきたが、本当にこれでよかったのか?」とです。
あのままどこかの大学に入り、研究者としての道を歩んだほうがよかったかもしれない、
とです。
ワイフもときどき、そう言います。
そのほうがこの日本では、生きやすかったのかもしれません。
しかし悪いことばかりではありません。
この40年間だけをみても、日本は大きく変わりました。
今の今も、変わりつつあります。
不十分かもしれませんが、やっと日本も、民主主義に向けて産声をあげつつあるという
ところではないでしょうか。
(その一方で、復古主義的な動きもありますが……。)

その私も満61歳。
先生が東京理大へ移られた年齢です。
で、もう遠慮はしない。
言いたいことを言い、書きたいことを書く。
そういう姿勢に変わってきました。
「自由」を満喫できるのは、これからだと思っています。
最後になりますが、先生にはいつも、本当に励まされます。
私の知人の中には、(そのほとんどがそうですが……)、定年退職と同時に、
ジジ臭くなってしまい、隠居だの、旅行だの、畑作だの、そんなことばかりして
いる人がいます。
そういう人たちを見るにつけ、「どうしてこの人たちは、もっと天下国家を論じ
ないのだろう」と不思議でなりません。
残り少ない人生を、若い人たちに還元していく。
それこそが私たちの世代の者の使命だと私は思うのですが……。
言いかえると、長い人生の中で、日本という組織の中で、そのように(飼い殺されて
しまった)ということにもなりますね。
「牙を抜かれてしまった」と言い換えてもよいかもしれません。
そしてなお悪いことに、今度はそういう人たちが、保守主義、あるいは保身主義に
陥ってしまっている!
過去を踏襲しながら、踏襲しているという意識そのものがない。
もっともそれをしないと、自己否定の世界に陥ってしまいますから……。
だから私のような人間は、嫌われるのです。
私のような人間に、成功(?)してもらっては、困るのです。
そういう一般のサラリーマンたちがもっている潜在的な意識は、あちこちで、
よく感じます。
またまた愚痴ぽくなってきました。
実のところ、この2週間ほど、スランプ状態で、脳みそが思考停止状態にありました。
思考停止というより、「もうどうでもよくなってしまった」という感じでした。
「どうしてこの私が、日本や、人間や、地球の心配をしなければならないのだ」と、です。
「どうせ私は、だれにも相手にされていないではないか」と、です。
しかしまたまた先生からのメールをもらって、元気100倍!
一気に、ここまで(計6ページ)も書いてしまいました。
今朝は指の動きも軽快です。
久しぶりです。
ありがとうございました。
なおいただいたインタビュー記事ですが、先生のおもしろさが、まったくなく、
私はつまらないと思います。
先生がいつか話してくださった、紅衛兵時代の中国や、東大紛争時代の理学部の話
のほうが、ずっとおもしろいです。
プリンストン大学のアインシュタイン博士の話でもよいです。
先生の父親が、理学研究所でシャワールームを作った話でもおもしろいです。
あるいは東京理大の入試問題の話とか、不合格になった学生の親から抗議を受けた
話とか……など。
私が先生なら、そういう話をまとめて自伝にします。
あらいざらい、この際、世界を蹴とばすようなつもりで書きます。
(私も、現在、そういう心境になりつつあります。)
つまりこの記事は、たしかに「遺産」ですが、(まだ生きている人に向って、
「遺産編集」というのも失敬な話だと思いますが……)、先生はまだ遺産ではない。
「現役」です。
その現役であることに感動しています。
実のところ、先生が数年前、アメリカの化学の教科書を翻訳出版したと聞いたとき、
あるいは50歳を超えて、中国語を勉強し始め、中国科学院で中国語で講演をした
と聞いたとき、そのつど、私は心底、励まされました。
「人間は、やる気になれば、できるのだ」と、です。
先生と私とでは、月とスッポンですが、いつも月をながめてがんばっています。
(実のところ、今のこの日本で認められるということは、あきらめています。
だいたい、この日本を相手にしていないのですから……。)
どうかお体を大切に!
関節の具合はいかがですか?
血栓も無事防げたということは、メールを読んでわかりました。
よかったですね。
では……。
先生からいただいたインタビュー記事は、そのままBLOGなどに収録しますが、
よろしいですか。
不都合な点があれば、知らせてください。
なおたびたびですみませんが、先生から預かっている原稿が、山のようになっています。
こうした原稿も、随時、私のHPやBLOGなどで掲載してもよろしいでしょうか。
(現在、掲載しているのは、許可をいただいた分のみです。)
また気分のよいとき、返事をください。
待っています。
林 浩司

***********以下、田丸謙二先生より***************
1:はじめに
○インタビュアー:田丸先生、今日は土曜日で、先生おくつろぎのところ、わざわざ私ど
も化学遺産委員会のためにお時間を割いていただきまして誠にありがとうございます。
私ども化学遺産委員会、日本化学会、もちろん先生は会長を以前にしていただいており
ましてよくご存じのところでございますが、化学遺産委員会というものを昨年3月に立ち
上げまして、その以前には化学アーカイブズという形で3年ぐらい事業を続けたんですが、
化学遺産委員会というわかりやすい名前に変えまして、そこでいろいろな事業を行ってい
るわけですが、その中の一つに、化学における立派なご業績を残された先生方、あるいは
企業で立派な仕事をなさった方々、そういった方々の人となりを声と映像で残そうという
事業を一つ行っております。
○田丸先生:先生は最初からご関係なんですか。
○インタビュアー:はい、一応やらされて。私、一応、今、化学遺産委員会委員長を引き
受けております植村でございます。
それで、今日は、先生がご幼少のころからずっと今まで、どういうふうにして化学の道
に入ってこられて、どのような人生を歩んでこられたのか、それを先生にご自由にお話し
していただけたらと思っております。
2:生まれ育ちについて
まず、どういうところからでも結構なんですが、一応、先生の簡単な生い立ちというも
の、先生は、まさにここ鎌倉でお生まれになったんですか。
○田丸先生:この家で生まれました。
○インタビュアー:そうでございますか。それでずっとここで育たれて、大学は東京大学。
そのときは先生、まだ東京帝国大学ですね。
○田丸先生:はい。
○インタビュアー:帝国大学の理学部化学科に行かれたとお聴きしておりますが、そのあ
たりまでのところで、何か先生、ちょっとお話していただけますとありがたいんですが。
○田丸先生:その辺りのことは私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)に
も書いてあるんですけれども。小学校のときは、ここの鎌倉師範の附属に行っていて、そ
こを出て神奈川県立湘南中学校という、今の湘南高校ですけれども、旧制の中学に入って、
それで、そこでは化学が一番嫌いだったんですよ。成績も他の科目に比べて悪かったんで
す。
私の成績のことをふだん言う人ではなかった父だったんですけれども、父が、やっぱり
自分が化学をやっていたせいか、「化学の何がわかんないの?」と聞かれて、返事に困った
ことがあるんです。要するに分からないというよりも、全くの暗記物だったんです、その
ころですね。だから毎週、もう「これ暗記したか」、「これ暗記したか」とばかり教えられ
て、要するにつまらなかったわけですね。ただ、父が言った一言を覚えているのは、「大学
に行くと、化学は今のと随分違うんだよ」というのは、ちょっと頭の隅に残ってはあった
んですね。
とにかく大嫌いな化学だったのが、旧制高校に入りまして化学を学ぶと、もう全然違う
んですね。それこそ、なるほど、なるほどという話になって、今までのただ暗記すればい
い化学とは全然違って、「これはなかなか面白いな」と考えが変わったのです。
ちょうど大学の入学試験に、僕の年まで分析実験の試験があったんです。未知試料をも
らって、これは何かという答えを2時間で分析して、そのレポートを書く。その練習まで
特別にさせてもらって、それで、なかなか面白いなと思って。今まで嫌いだったのが、そ
の時点で切り替わりました。やはり、なるほどというか、化学って考えてやるもんだなと
いう因子がそこで入ってきたわけです。
そのころは、戦争中でしたから、勤労動員に行ったりしてなかなか勉強しにくかったん
ですけれども、私が大学を卒業したのが昭和21年で、終戦の翌年ですね。その頃は東京の
相当部分が焼け野原でしたし、財閥は賠償に取られるんだとかいろいろの噂があり、もう
いい就職口なんか全然なかったんです。ただ、戦争中に特別研究生と言って、助手並みの
給料をもらいながら研究をする、そういう理系の学生を育てるというシステムが終戦後も
残っていたんですね。

○インタビュアー:聞いたことがございますね。大学院入学から学位をもらうまで
○田丸先生:それで、そのいわゆる特研生にしていただけたものですから大学に残れて、
おかげさまで人生がそこである程度決まったわけです。
○インタビュアー:今、先生が言われましたが、お父様が化学をやっておられて、高名な、
後でまたお話ししていただくと思うんですが、非常に高名な、私が聴いたところによると、
日本化学会の会長先生がこの家から2人出ているというような、お父さんと息子さんでと
いう、そういうことをちょっと耳に挟んだことがありますけれども。
○田丸先生:そうですね。偉はそうえらそうなことを言うのではなくて、医者の子どもが
医者になりたがるのと似たような、余り深い哲学もなくて継いだという面もなくはないと
思うんです。
○インタビュアー:物すごくいい親孝行を先生はされたんですね。
3:大学院時代と就職
○田丸先生:いやいや。
それで、私が後で考えて、一番大事だったと思うのは、大学院に行きまして、鮫島実三
郎先生のところに研究テーマをもらいに行ったわけです。何をしたらいいでしょうかと。
そうしたら鮫島先生が一言、「触媒をおやりになったらどうですか」と言われたんです。そ
のころ、もっとずうずうしければ、触媒をどういうふうにすればいいんですかと質問して
もよかったかもしれないんですけれども、そのころは、先生は偉い人で、そういう一言を
いただいて、「はい」と言って引き下がってきたんです。
ところが、鮫島研究室の中には、例えば助教授の赤松秀雄先生は炭素の電気伝導度、あ
れは後で学士院賞になった有機半導体の研究、それから後にお茶大に移られた立花太郎先
生が煙霧質といって煙のことをやっていらしたし、それから、中川鶴太郎さんという後に
北大に行かれた人は液体の粘弾性というのをやっていたり、みんな違うことを勝手にやっ
ているんですよね。だから、誰に聴こうが、教わる先輩が全然いないんです。「触媒をおや
りになったら」と言われてもね。今、何が面白いんでしょうとか、普通は同じ研究室にみ
んな先輩がいて相談に乗ってくれるんですけれども研究室の中には誰もいない。しかも、
化学教室自体が、水島三一郎先生みたいに分子構造論とか、島村修先生の有機化学なんか
があるんですが、触媒をやっている人なんか一人もいないんです。
しかも、もっと悪いのは、終戦直後ですから外国の文献が全然入ってこなかった。そう
すると、戦前の随分古い文献までしか文献がないんですね。それで、触媒をおやりになっ
たらと言われても、それからの4〜5カ月というのは、もう本当に苦しかったんです。何
をしていいのか自分で決めなければいけないわけですね。それで、古い本を見ていても、
分かったことは書いてあるんですけれど、研究というのはどういうものかというのは、大
学院の入りたてですから全然そういう下地がなくて、苦しい4〜5カ月に一生懸命考えて、
何をしたらいいだろうと迷いに迷って。1人で考えるものですから全然自信がないんです。
でも、その迷いが後々まで、自分のやっていることが何か間違っていないだろうか、あ
るいはもっと発展するいい考えがないだろうか。それで、どういうふうに考えたらいいん
だろうかと、いつも研究しながら、自分で自分に問いかけながら研究をするという、そう
いう研究の基本を問わず語りに教わったわけですね。僕は、非常にいい経験だったなと後
になって思います。
それで、さんざん迷った挙句実際に決めたのは、パラジウムを触媒とするアセチレンの
水素添加反応で、アセチレンからエチレンになって、更にエタンへ行きますよね。そのと
きに、あのころはもう研究費もないものですから、ただの真空ポンプで、反応容器を真空
にしてアセチレンと2倍の水素を入れてやったんですけれども。そうすると、全圧を計っ
ていると、だんだん時間と共に圧力が減るわけですね、水素化されますから。そうすると、
あるところで、何もしないのに急に反応が早く進むんですよ。「これは何だろう?」とよく
調べてみたら、アセチレンのある間はエチレンからエタンに行く反応が起こらないんです。
アセチレンが全部エチレンになったら、今度はエチレンの水素添加が早く進み始まるんで
すね。そういう二つの反応が一つの実験の中に別々にぽんと入っているんですね。
これは、後で分かったのは、そのころ世界でも誰も知らなかったことだったんです。た
またまそういうものにぶつかったものでした。そうしたら、パラジウム触媒の分散度を変
えたら二つの水素化反応が如何に変わるか、触媒の担体を変えたらどうなるだろうか、そ
れから、触媒を部分的に被毒をさせたらどちらがどうなるだろうかと、いろんな実験がど
んどん後に続くわけですね。
それで、その結果が数年後にアメリカで「Catalysis」というEmmett(BET吸着式の提唱
者の一人)がつくった本があって、その中に3ページほど引用されていて、結構新しい面白
いことだったわけで、それは全く運がよかったわけですよね。
○インタビュアー:先生、そのお仕事は、やはり邦文の論文として。
○田丸先生:欧文誌に出しました。
○インタビュアー:日本化学会の欧文誌に。
○田丸先生:そうです。
○インタビュアー:それは、きちんとエメットなんかが見て、それを。
○田丸先生:そうですね。多分Chemical Abstractsあたりを通したんではないでしょうか。
それでその結果学位をもらえたんです。幾つも印刷発表をしたものですから。そのころは
まだ、本当の大学院が発足していませんでしたけれども、いわゆる論文ドクターで、普通、
論文ドクターは、大学を出て7〜8年してもらうものだったんですね。

○インタビュアー:そうですね、普通は時間がかかりますね。
○田丸先生:「鮫島先生が卒業年度を間違えたんじゃないの?」と言われたくらい、4年で
もらえたんですよ。それで、ひき続き就職の話になるんですけれど、一年先輩の学年の人
や兵役解除された人達が一杯いてトテモ空いた地位がない。そのころはGHQがみんなコ
ントロールしていましたから、アメリカと同じに、日本では各県に1つずつ大学をつくる
んだよということになったのです。それまで、大学というのは数少なかったわけですね。
いわゆる旧制大学だけでしたから。それからアメリカ式の教育システムになるという話に
なっていました。丁度その頃横浜国立大学から人を求めてきたからどうですかと言われた
んです。しかしそのころは横浜国大と言っても、いわゆる横浜高等工業ですよね。研究な
んか、全然そんな雰囲気のところではなかったわけです。日本のいわゆる新制大学が全部
がそうでしたけれども。その上、横浜には夜学もあって、何か雑用ばかりさせられて、こ
んなことしてたんじゃとてもいけないなという感じで、それで、アメリカのPrinceton大
学に Sir Hugh Taylorという触媒では世界のリーダー的大物で、その弟子たちが各国にい
る、触媒の分野では本当の泰斗というか、開拓者の一人がおられて。
4:アメリカ留学時代
○インタビュアー:Sir Taylor。
○田丸先生:はい、Sir Hugh Taylor。それで、その方に学位論文と自分のことを書いて、
留学できませんかと手紙を直接出したんですね。そうしたら、たまたまテイラー先生がお
若いときにハーバー(Fritz Haber)の研究室を見に行ったら、私の父とお会いになったのを
覚えていらしたんです。それで、ハーバーがアンモニア合成に成功したのは、その下にLe
Rossignolとか、田丸とか、すぐれた人がいたからだよとおっしゃるんです。
つまり、あのころ人類は、人口は増えるけれども、窒素肥料はチリ硝石に主に頼ってい
たんですが、もうそのチリ硝石も枯渇するのが目に見えている、人類の将来は飢餓が訪
れるともっぱら前世紀の初めには言われていて、Ramsay(Sir William Ramsay)とか、
Ostwald(
Wilhelm Ostwald) とか、Nernst(Walther Nernst)とか、後でノーベル賞をもらった連中
がみんな、一生懸命窒素固定のことをやっていたんですね。中には、空気中で放電して
NOxを作ることをやろうとしていたのもいましたけれども、窒素と水素からアンモニ
アをつくるというのが、本当にどれだけ行く反応なのか、窒素は不活性な気体ですから,
平衡定数がよくわからないで、みんな暗中模索でやっていたんですね。
それで、Nernstという人が、高圧がいいに違いないというんで、高圧にして、平衡定数
を計ろうとしたんですけれども、データが不正確で、ブンゼン学会で1907年に有名な討論
があって、ネルンストは、結論として窒素と水素からアンモニアをつくるなんていうのは
工業的にも到底できない反応であると言いきったんですね。ハーバーは、実験が正確では
ないんだというので有名な討論があったのです。ハーバーはアンモニアの合成と分解の両
方から速度を求めただけでなく、窒素と水素の混合気体を触媒を通す循環系を使って循環
させ、それの途中でアンモニアを集める工夫をしてやる。そうするとだんだんアンモニア
がたまってくる。そういうアイデアでやったら、これで行くよという形になって、それで
初めて、1909年に、オスミウムを触媒にして、180 気圧、820 K でうまくやってみせたん
ですね。
それで、BASFがそれに乗り出して、Bosch (Carl Bosch)が大変な苦労をして高温、
高圧の条件でスケイルアップし、Mittasch(Alvin Mittasch) がいい触媒を見つけるのに成
功したわけです。ハーバーは1918年にそれでノーベル賞をもらったんですけれども、ボッ
シュは高温、高圧の化学工業を初めて成功させたというので、1931年ですか、ノーベル賞
を貰っていますね。
○インタビュアー:いわゆる我々がハーバー・ボッシュ法と大学で習うあれでございます
ね。
○田丸先生:そうなんですね。
○インタビュアー:そのときの技術というのは、今の化学工業の一番の礎だ、基礎だとい
うところで、いまだに、それがあったからということを聞きますけれども、そうなんです
か。
○田丸先生:そうなんですね。Mittasch が、その反応に使ういい触媒がないかといって非
常にたくさんのものを探したんですね。その研究が、触媒の本性というか、それを随分明
らかにしたんですね。例えば、その際たまたまスウェーデンから出てきた鉄鉱石がいい触
媒だとわかって、それじゃといって、純粋の鉄を使うとだめなんですね。それで、なぜそ
うなんだろうというので、純粋の鉄に微量なものを加えると活性がぐんと上がる。いろん
なそういういわゆる助触媒作用というものとか、もちろん触媒作用の温度の影響や被毒現
象なんか、そういう触媒の性質を非常に明らかにした。ミッターシュ自身もノーベル賞を
もらってもいいくらい、本当に触媒の本性を初めて明らかにしたわけですね。
テイラー先生はそういうのを見ていらっしゃったから、その田丸の息子なら雇ってもい
いと思われたらしくて、comfortable に生活できるからプリンストンへいらっしゃいと言
われて。
○インタビュアー:それは先生、昭和何年ごろですか。
○田丸先生:1953年です。昭和28年ですね。
○インタビュアー:講和条約ができた直後ですか。
○田丸先生:まだ珍しいころです。
○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:ちょうどフルブライトがあったものですから、それで家内と行かせてもらっ
て。日本じゃ、あのころ、生活費の中で食費が占める割合であるエンゲル係数というのは
大体60%、まだ食べるのがやっとの時代でした。そのころアメリカに行って、日本にまだ
なかったスーパーマーケットで、食べたいものをみんな、アイスクリームでも何でもかご
に入れられて、それが一番の感激でした。一桁以上違う生活レベルでしたから。
それで、実験施設もいいし、テイラー先生がとってもよくしてくださったんです。そこ
で、いろいろの話から問わず語りに、研究というのは頭でするものだよというのを非常に
深く教えていただきました。実際にテイラー先生の弟子たちが、世界中、方々にいたんで
す。ですから、後で方々に行くと、おまえ、「プリンストンの田丸だね」と言って、とても
よくしていただいて。
例えば、ソ連なんかではボレスコフ(G,K,Boreskov)という大物がいたんです。ノボシビ
ルスクの触媒研究所の所長で、アカデミシャンで、ソ連の中で触媒関係についていろいろ
決めていた。それが、「テイラーがあなたのことをベストなスチューデントだと言ってたよ」
といって、私がいろいろな国際会議の議長や国際触媒学会(第9回ICC) (International
Congress on Catalysis)(1956年以来4年毎に開かれている大きな国際触媒学会で、昨年
韓国のソウルで第14回が開催された。第1回からこれまで14回全部のICCに参加したの
が世界で私一人だけになってしまって特別に挨拶させられた)の会長をやっていたときに
も、例えば台湾を1国として数えるかどうかとかいろいろな問題があったんですけれども、
米ソの軋轢の中でボレスコフさんはとても協力的にやってくれました。そういう意味では、
テイラー先生のおかげで、随分助かったんです。
5:In-situ dynamic characterizationの始まり
テイラー先生のところでやった実験というのは、ゲルマニウムの水素化物のゲルマニウ
ムの上での分解反応なんですけれども、それをやっているときに思いついたのは、触媒反
応の反応中の触媒の表面の反応現場、それがどうなっているかを直接調べたいというアイ
デアを生んだんです。それまでは、触媒というのは微量で反応速度を促進するものという
ことで、いつもブラックボックスの中に入っていて、ブラックボックスの入り口と出口の
情報を基にして、例えば反応速度式の情報から、反応はこういうふうに行くのではないか
という推論だけやっていたんですね。
ところが、僕はやっぱり、本当に大事なのは反応をしている最中に触媒表面の現場を見
ることである。何がどんな形でくっついているのか、それがどういうダイナミックな挙動
をするか、どんな反応経路を経て反応が行っているのか、そういうものを、後でisotope jump
method と称したんですが、定常的に反応が進んでいる最中に、ある反応物を同位元素で印
を持ったものにぽっと置き換えるんですね。その同位元素が吸着種の中に現れてきて、そ
れからこっちへ行って最後に反応生成物に行くという、その反応経路もわかるようになる
わけです、
それで、兎に角触媒反応が進んでいる状態で触媒表面を直接調べようということをテイ
ラー先生に申し上げたんです。まず触媒を普段よりうんと多くして、閉じた循環系で
反応速度を測りながらやりますと吸着種とその量が分かるのです。そうしたら、先生はそ
のときに、直ぐにその意味を分かってくださり、「You are very ambitious」更にもう一度
「You are very ambitious!」とため息混じりに二度繰り返されました。でも、まだ世界中
でそれまで誰もしたことがないのに、そんなこと果たして本当にできるのかと先ず仰いま
した。じゃ、その計画を持っていらっしゃいというので、翌日、触媒をこれだけ入れて、
こうやって、こうすると、このくらいできますよといって、「じゃ、やってごらん」という
ので、そこで触媒反応中の触媒表面の直接の観察が初めて始まったんです。

○インタビュアー:You are very ambitiousと言われたわけですね。
○田丸先生:はい。それで、パリで1960年に大きな触媒の国際会議(第2回ICC)があっ
て、そこでテイラー先生が、僕のアイデアを引用して招待講演をなさったんですけれども、
触媒作用はこれまで反応機構が暗中模索だったけれど、これからは田丸のアイデイアで、
新しい頁が開けるよ。こうやって反応の起こっている現場を調べていくと本当の触媒作用
の機構がわかるんだよと。これから新しい触媒の研究面が生まれて、それを基にして、あ
とは反応中間体の調べ方を開拓していけば、ちょうどそのころ、吸着種を調べる赤外分光
も出てきたし、それから電子分光も直ぐに出てきて、そういう新しいアプローチも出てき
たころだったからよかったんですけれども、いわゆるワーキングステイトの触媒の表面が
どうなって、どういう反応経路を経て反応が行くかというのを調べ始めて、程なく何百と
いう研究報告がその新しい線に沿って出てきて、いわゆる触媒作用の分野が本当のサイエ
ンスになったんですね。それまでだとただ外側から推論だけだったのが。
○インタビュアー:今のことは、インサイトーの、インシチユーの、それの中で吸着がど
のようになっているかというようなことを見るというアイデアだったわけですね。
○田丸先生:そうなんですね。触媒のin-situ dynamic characterizationの始まり、つま
り、触媒の表面を反応中に直接調べるという。それで、そういう線に沿ってその後にEXAFS
とかいろんな新しい手法で調べるダイナミックなキャラクタリゼーションを色々の人が始
めて、それがだんだん積み重なって、一昨年、ベルリンのフリッツ・ハーバー研究所のデ
ィレクターだったErtl(Gerhard Ertl)がノーベル化学賞をもらいましたけれども。
○インタビュアー:ドイツの人。
○田丸先生:はい。触媒の基礎としてPhotoemission electron microscope という面白い
手法で、反応中の触媒表面を反応中に調べたんですね。そういうこともあってノーベル賞
をもらいましたけれども、私が言い出してからの50年間というのが、そういう触媒のサイ
エンスが飛躍的に進歩発展していった時代で。
○インタビュアー:要するに、先生が、そのノーベル賞につながった一番最初のところの
提案者というか、そういう感じでございますね。
○田丸先生:そうですね。ちょっと言い過ぎかもしれないですが。
6:Princetonからの帰国
それで、1956年にプリンストンから日本へ帰ってきて、触媒討論会で初めてそれの反応
例を、タングステンによるアンモニアの分解の結果を発表したんですね。そうしたら、
堀内寿郎先生という当時北大の触媒研究所の所長さんで、後で総長になられましたけれ
ども、その先生はいつもスピーカーのすぐ前に座っていらっしゃるんですよ。それで、
僕の話が終わったら、すっくと立ち上がって、本当に言葉を尽くして褒めてくださいま
した。これはすばらしい研究だと。触媒の研究が、これでこれからは本当のサイエンス
になるんだと。
それで、私についていらっしゃいと仰るんです。どこへ行くのかなと思ってついて行っ
たら、文部省に行かれて、文部省の研究助成課の課長、中西さんとそのころ言った、その
人に会って、堀内先生だからそういうところへ行って、会えたんですね。田丸は今将来学
士院賞をもらうほどの素晴らしい新しい研究をやっているから、是非幾らかでも補助して
あげられないかと個人的に交渉なさって、当時、特別に15万円もらって。15万円って少額
ですけれども、そのころ私は横浜の助教授の、まだ30歳ちょっと超えたころで、もう本当
に真空ポンプ一つ買うにも苦労していたものですからとっても助かりましたし、そのよう
に励ましていただいたということですね。堀内先生とは師弟関係があったわけじゃなかっ
たんですけれども、そうやって特別に褒めていただいたのは、とてもありがたかったなと
思うんですね。
○インタビュアー:見抜かれる方もそうですが、見抜く方もすごいもんですね、やはり。
立派なものですね。
○田丸先生:それで、これは学士院賞に値すると褒めてくださったんですが、本当にもら
ったのは何十年か後でしたけれども。
○インタビュアー:先生は学士院賞もいただきましたですね。
○田丸先生:だから、触媒が新しいサイエンスとなった、新しいページを開いた時代でし
たから、やること、なすことみんなexcitingで、面白いんですね。基本的な触媒反応につ
いて、この反応の中間体は、今まで教科書なんかに書いてあることと全然違うことも出て
くるんですね。学生たちも非常によく働いてくれたものですから、新しいことが沢山出て
と来てとても面白かった時代です。
○インタビュアー:先生はプリンストンには2年ぐらいいらっしゃったわけですか。
○田丸先生:3年近くいました。あちらで双生児が生まれましてね、おしめのことなどあ
り,まだその頃は長旅はすぐ帰れませんからというので、双生児を理由にして1年延ばし
てもらって。双生児のおかげでよかったんですけれども。 (その双生児が生まれた病院で
一ヶ月後にアインシュタインが亡くなりました)
○インタビュアー:それは、横浜国大に籍を置いたままやらせていただく。
○田丸先生:そうです。それで、横浜の方では、(当然のことながら)人手が足りなくて困
って大分冷たいことを言われましたけれども、双生児で今本当に困っているんだから、長
旅はちょっと待ってよということで。だから、帰国までにいい実験結果もまとまりました
し、帰国後も学生に本当に新しい局面の実験をさせることができたんですけれども。
私がいつも口癖のように言っていたのは、「せっかくいい頭をお持ちなんだから、よく考
えなさい」と。よく偉い先生が、アイデアがたくさんあって、おまえはこれやりなさい、
おまえはこれやりなさいと先生からテーマをもらって、院生は人手として実験して、確か
にいい仕事ができるんですけれども、研究テーマをもらってやっただけでは、その後、独
立すると育たないんですね。それじゃいけないからと思って、テイラー先生のやり方もそ
うだったんですが、とにかく研究は頭でするものだというフィロゾフィーですね。
「せっかくいい頭をお持ちなんだからよく考えなさい」と、ここにいる人たちも言われ
たと思うんです。ただ、初め、みんな皮肉を言われたと思うんですね。ところが、僕にし
てみれば、頭は使えば使うほどいい頭になるんですよね。そういう基本があったものです
から、みんなやはり研究は何か新しいことを、先生からもらったテーマだけじゃなくて、
それをいかに発展させるかというのを考えてくれたというのがあります。そうやって考え
に考えて自分で新しいアイデイアを考え付く体験はその人の一生の宝になるものです。
○インタビュアー:それは、先生も、鮫島先生からそういうご指導を受け、またテイラー
先生から受けられたという、それがきちんと身になって。

7:Independent thinker について
○田丸先生:それが基本になっているのではないかと思いますね。ですから、口の悪いの
が冗談半分に、私がいつもそう言っているのは、「あれは先生にアイデアがないからだよ」
と言った人もいるんですけど、必ずしもそうではなくて、学生によると、僕が例の通りそ
う言うと、これは自分で考えに考えてこう考えるのです、と言うから、それじゃやっぱり
足りないよ。こういうこともあるだろう、ああいうアプローチもあるだろうと、やはりそ
のくらい言える準備はしていないといけないんですけれども。
○インタビュアー:学生が、本当は先生もわかってるんだなと思うわけですね。
○田丸先生:それで皆さん、自分でよく考えていただいて。だから、例えばここにいる人
たちは、みんな東大の名誉教授と東大教授ですけれども、その前は、田中虔一君は北大か
ら東大に呼ばれたし、川合真紀さんは理研から、それから堂免一成君は東工大からとか、
初めいろいろなところへ就職させても、その先々で自分で考えていい仕事をしてくれたも
のですから、その結果として東大に招かれて。だから、僕は別に東大で政治的にどうした
ということは全然なくて、そういう仕事を通して研究室の卒業生の中から東大に8人も集
まったということだと思うんです。その他、京大、阪大、東工大などなどにもいますし、
私の研究室を出て大学教授になった連中はざっと数えても40人近くおりますし、国立の
研究所や企業でも活躍している人達も少なくありません。そういうお弟子さんのおかげで、
それこそ弟子でもってるねというのがそれなんですけれども。
○インタビュアー:今日はちょうどそのお三人の先生方もいてくださっているので、先生
は心強く話していただけると。
○田丸先生:お蔭様で、しかし間違ったことを言ったら言ってください。
○インタビュアー:いやいや、それは本当です。
○田丸先生:考えるに、大学院の時代でも、よく考えろ、考えろと言われると、考えるよ
うになるもんだなという感じがしますね。
本当は、日本の教育が、自分で自立して考える教育というのが大変に乏しい。先生も生
徒も、自分の考えが足りないことは自分では気がつかないものなんです。外国ではもう幼
稚園、小学校からやるんですよね。「お前はどう考えるか」、と。そうしてお互いに議論し
合うことを通して自分の考え方を作り上げるのです。
私の孫で大山令生(レオ)というのは、アメリカで小学校2年までやって日本に帰っ
てきたんですね。それで、何をするかいうと、コップに水を入れて、自分の腕時計を
水の中に入れているんですよ。「おまえ、何してんのよ!」と言ったら、「これ、防水
って書いてある」と。実験しているんですね。
それから、「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くとき低い音になるのは
なぜ?」とか、「台風のメってどんなものなの?」とか、小学校2年生のくせに自分で考え
てどんどん質問するんですよね。それで、彼の小学校の先生が、私は長い間先生をしてい
たけれど、こんな利口な子、見たことないと言いました。それが、どうでしょう、日本に
いるともう見る見るうちに質問しなくなりましたね。普通の子になってしまいました。
○インタビュアー:日本に帰ってこられてからですか。
○田丸先生:そうです。日本の教育は教科書を覚えさせられて、入学試験の準備をさせら
れて、ということで、自分で考える教育が殆どない。もう本当に見る見るうちに普通の子
になりました。日本の教育は生まれつき才能を持っている子供たちでもその才能を引き出
して(educeして)育てることなしにみな普通の子にしてしまうんですよね。個性を育てる
本当のeducation が存在していないのです。
そういう個性を伸ばす教育は、小学校時代からちゃんとしないといけないんだなという、
そうするのが本当の教育だなという感じがいたしますね。
○インタビュアー:先生、教育については、日本化学会の雑誌の『化学と工業』とか『化
学と教育』とかにもしばしばエデュースということについて書いていただいていますね。
○田丸先生:アメリカで母親として子供を育てた娘も一緒に書いてくれましたが、小学校
の校長先生にどんな子供を育てるのかと尋ねると、アメリカではindependent thinkerと
言って、自分で考えさせるという基本を小学校時代から心がけるのです。お前はどう考え
るか、の繰り返しで、debateしながら、各人がそれぞれ生来持っている異なった個性を伸
ばしながら、みんなで協力して民主主義が育つんだという哲学ですね。日本の小学校の先
生でindependent thinker を育てようとしている先生が何人いるでしょうか。日本だと、
何かみんなと違う考えだと村八分になったりして、みんなと協力するという、「和をもって
貴しとなす」という、いい面もあるんですけれども、逆に言うと、個が育つ環境がないわ
けですね。
本当に日本はこれから、殊にコンピューターの時代に、時代の変化が加速度的にどんど
ん速くなっていきますね。そういうときに、「教え込み教育」を通して単なる物知りなどを
つくっている教育ではだめなんで、やはり自分で考えられる、そういう変化の激しい時代
をリードできる人間というのは、やっぱりそういうindependent thinkerとして、自分で
考えるクリエイテイブな教育を受けさせることが必要で、これから日本は教育を基本的に
変えていかなければいけないのではないかなという感じがします。私の院生の連中は電子
供与体と電子受容体とを組み合わせて所謂「EDA錯体の触媒作用」もやっていたのもいまし
たが、両者の組み合わせでそれぞれと全く異なった触媒作用が現れるのです。鉄フタロシ
アニンとカリウムの錯体など、アンモニア合成を室温で進ませるものもでてきたりして、
沢山のデータを集めて「EDA錯体の触媒作用」として一冊の本に纏めてあります。
私の経験からも、特に大学院に入って最初の1−2年に知的体力を蓄えることが非常に大
事なんですね、研究とは如何なることをするものかという正しい概念を身につけることで
すが、なかなか難しいことですけれど。現在の一つの現実的な問題は近視眼的な成果を求
める傾向もあって、日本学生支援機構(旧育英会)からの奨学金返済のシステムの変更があ
りますが、学問する上で学生にとっては大変に重要な問題になっているようです。
一方研究費については昔に比べると場所によっては近頃研究費は随分増えましたね。堂
免君のところなんて30人近くも抱えている。よくやっているとは思いますが。研究費で
は、僕なんていつも研究費が足りないので苦しみ、苦しみしてやってきたものですけれ
ども。ただ、そういう十分になってきた研究費が、さっきのように、本当に研究という
のは、自分でいつも考えに考えてやるものだという、それで練習問題的なことでなく、
新しいことをやらなければいけないという基本的な厳しい考え方が薄れて、イージーに
なってくる恐れを感じるのですが。研究費の出し方も同様ですが。
勝手な考え方ですけれども、やはり、殊に大学院に進んで最初の数カ月、テーマをいた
だいてからの苦しみというか、厳しさというか、本当に研究って何をするんだろう?何を
やっても、もっといい考えがないかとしょっちゅう自分で悩みながら研究をするものだと
いうことを実際に教えていただくという、それは、研究者として基本的な大事なことだと
思います。
○インタビュアー:それが先生の仕事の本当の原点になっているんですね。
○田丸先生:大学院生なんかは、人手として使って、仕事をさせて、ペーパーは出るかも
しれないけれども、本当に研究の基本というものを、大学院生になって初めて研究に携わ
るときに、研究とは何をするのか、independent thinkerとして、自分で考えに考えて自立
した研究者になってくれればいいんですけれどもね。それが「知的体力」作りなんですね。
それをしないと、大学以下の受け取るだけの教育の延長では駄目なので、殊に新しく大学
院に入ってきた連中の研究者としての才能を育てていない感じがします。
○インタビュアー:そういう指導者であるべきだということですね。だから、先生のお弟
子さんは、そういう姿を見ておられるので、そういう感じの指導者になっていっておられ
るんだと私は思いますね。
○田丸先生:私のところから出て独立すると、みんなそれぞれ独立して立派な仕事をして
くれていますから、そこが少し違うのではないかという気がいたします。
○インタビュアー:確かに、最近ですと、大学院もきちんと充実してきて、例えば学部制
で入ってきても、テーマも上の先輩がやっているものの、まずは手助けぐらいから入った
りして、余り考えなくてもごく自然にやる。上の人がある程度仕事をやっていると、論文
として名前が出たりとか、「研究ってこんなものかな」と思いがちなところがございますよ
ね。

○田丸先生:そうなんです。新しく「研究」と言うものを学ぶときに、いい加減なことを
研究だと思い込ませるとその人の研究者としての才能を一生つぶすことになるわけです。
○インタビュアー:それは、一つは有能な方々が集まってきていたということはあったで
しょうね。ほとんど小中高校ぐらいの本当のトップだけが集まっていっているようなとこ
ろですから、先生もそういう指導がいいと思われたのかもしれないですね。
○田丸先生:でも、いわゆる秀才と、それからそういう新しいことを考えれる独創性とは、
やはり根本的に違うんですね。教えられたことを全て答えられる、そういう秀才だからい
い研究者というわけではないんですね。その辺の、習ったことを理解して覚えるだけでは
なくて、independent thinkerとして、自分で新しいことをcreativeに考える努力をする
という、人によって才能も違いますけれども、皆さん、そういう意味で努力してくれた結
果だと思うんです。出藍の誉れというのはみんな。
卒業生の活躍
○インタビュアー:先生もそうでしたし、先生のお弟子さん方も皆、やはり能力ある上に、
よく考えるということをされた方々が、その結果として、先生がおっしゃったように、40
人近い弟子たちが大学教授となり、中には東京大学だけでも8人も教授がいらっしゃる、
あるいは京大や阪大、東工大、北大にもいらっしゃると言うことですが、そういう人たち
が、また次の世代を先生の思想をもとに教えていっているというのは、非常にありがたい
ことですね。うれしいことですね。
○田丸先生:そうですね、今、弟子の弟子、つまり孫弟子を育てていますからね。少なく
とも、孫の育て方を厳しくきちんと考えてやりなさいという考え方を伝えてほしいなと思
うのです。さっき言ったように、時代の変化がますます激しくなってくる、そういう変化
の激しい時代をリードできるには、やはり自分で考えないといけないんですね。コンピュ
ーターができる物知りだけでは、これからはますますいけなくなるのではないかと。僕も、
先が短いですけれども、とにかくそういう、みんなが、もう少し日本人の教育全体的に、
independent thinkerとして、そういう個性を育てる教育がこれからますます必要になるの
ではないかと。
○インタビュアー:ちょっともとへ戻りますが、横浜国大で何年間かいらっしゃった後、
古巣へ戻るというか、先生はまた東京大学へ移られたわけでございますね。それで、そこ
でまた20年ぐらいいらっしゃったのでしょうか。
○田丸先生:そうです。東大の教授になったのが40ちょっと前ですから教授として20年
いました。その前に横浜に教授として4年半いたんです。そのときは僕も一生懸命実験を
したし、それなりに新しいやり方をやってもらったり、したりして、4年半教えた研究室
に毎年4人くらい来ましたか、その中から3人東大教授が出ましたし、大学教授になった
連中も幾人もいます。学生の質もよかったんですけれども、そのころから人が育ち始めて。
夜学なんかは随分つらかったけれども、学生がよくできて、そういう意味では、本当に私
は幸せだったと思います。
【次回へつづく】

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●神になったテレビタレントたち
+++++++++++++++++++++++
どこへ行っても、取り巻きのファンたちが歓声をあげる。
特別扱いを受ける。
もちろんお金にも困らない。
ワン・ステージ、100万円〜200万円。
あるいはそれ以上。
1、2度、コマーシャルに出るだけで、ふつうの人の年俸ほどの
収入を稼ぐ。
そんな生活をつづけていると、自分が神様か何かに選ばれた人間と
思うようになるらしい。
さらに自分が神様か何かと錯覚する人も出てくる。
自己中心性が肥大化すると、自分の姿が見えなくなる。
自分が人間であることを忘れてしまう。
その結果として、自分を神様と思うようになる。
++++++++++++++++++++++++
で、先ごろ、若い人たちの間で絶大な人気を誇る、Kなぎ(34)が、
どこかの公園で素っ裸になり、公然わいせつ罪で逮捕された。
それについて、同じくSMAP仲間の、NMというタレントが
こう述べている。
『これは僕たち、Kなぎ本人が、越えることのできる、越えなければならない、越えるべ
きであろう試練を、神様が与えてくれたんだな、と前向きにとらえています』(サンケイス
ポーツ・5月14日)と。
こういうところで、「神様」という言葉が出てきたのには、驚いた。
こういう言葉は、自分自身がその神様か、あるいは仲間が神様か何かと思って
いなければ出てこない言葉である。
「素っ裸になって逮捕されたことを、神様が与えてくれた試練」とは?
だからといって、Kなぎというタレントがどうのこうのと言っているのではない。
一般論として、人は、自分が有名になればなるほど、また権力者になればなるほど、
自分を「神様」と錯覚するようになる。
隣のK国の独裁者を例にあげるまでもない。
どこかの宗教団体の長は、自分のことを「釈迦の生まれ変わり」と説いている。
それもそのひとつ。
こうした感覚は、私たち庶民のそれから、かなりかけ離れているため、私たちには
理解できない。
が、無罪とは言えない。
中にはファンとして取り巻いている若い人たち自身が、「神様」と認めてしまう人も
いる。
ごくふつうの、力もなく、お金もなく、名もない若い人たちが、である。
が、人間に神様も、仏様もない。
仮にいるとしても、まったくそれらしくない人の姿をしているはず。
私やあなたのそばにいて、目立たす、ひっそりと暮らしている。
人間をはるかに超越した神様や仏様が、人間社会に君臨して、「私は神様だ」とか、
「私は釈迦の生まれ変わりだ」とかなど、言うだろうか。
言っても意味はない。
それがわからなければ、一度、どこかのモンキーセンターで、サルたちと一緒に
暮してみることだ。
あなたはそういった世界では、神様以上の神様になる。
が、あんな世界で、サルたちを相手に、「私は神様だ」と言ったところで、意味はない。
意味はないことは、あなたにだってわかるはず。
それにしても、「神様」とは?
そこらのテレビタレントですらも、「神様」という言葉を使うようになった?
それはともかくとして、こういうことは言える。
「神の与える試練」というのは、その先で、「愛」や「慈悲」とつながるもの。
試練を乗り越えて、人は、深い愛や慈悲にたどりつく。
「金儲け」や「名声」につながるとしたら、それは試練でも何でもない。
ただの(お騒がせ)。
なお、今回の事件で、Kなぎというタレントは家宅捜査まで受けている。
これについては国会でも問題となった。
しかしあえて捜査令状を請求した警察側を弁護するなら、こういうことは言える。
つまり家宅捜査をしたということは、その背景に、何かあったとみるべき。
裁判所だって、むやみやたらに、令状など発行しない。
なぜ家宅捜査したか……ということについては、それをするだけの何らかの理由が
あったとみるべきではないのか。
それが何であったかは、私には知る由もない。
わからない。
また警察側もそれを開示することはないだろう。
その義務もない。
また開示すれば、かえってやっかいなことになる。
つまり、「有名なタレントだから、家宅捜査した」と考えるのは、思いすごしと考えてよい。
ファンの人たちには神様のような人間かもしれないが、私たちのように一歩退いた
世界にいる者にとっては、ただのタレント(失礼!)。
有名なタレントだからという理由だけで、特別扱いすることは、私たちの常識から考えて、
ありえない。
それにしても「神様が与えた」?
神様もそんなヒマではないと、私は思う。

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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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